東京に住んでいると、ダリアはお店で買う花と思ってしまう。大輪のものなど、豪華で、独特の存在感がある。
スイス時代のブログなどを見返していて気づいた。ダリアは、庭先でよく見かけるごく普通の花、彩りを添えていたにも関わらず、人の注目を集めない花だったと。
30年以上前に住んだジュネーブ郊外の一軒家の庭の片隅にも、10年前に三年過ごしたベルンの家の庭の目立たないところにも、当然の顔をして咲いていたと、二日前のブログを書いたあとで気づいたのだった。
フランスでもスイスでも、バラの花もまた、あちこちの庭に咲いていた。しかし、さすがはバラ。庭の目立つところに植えられていた。ダリアは、脇役。ベルンの庭など、部屋の窓からは見えない所に植えられていた。
丈夫で、茎が長く、色が豊富で、夏から秋まで次々と咲いてくれるので、不意の来訪者の時などに飾り花として重宝した。特に赤紫と白の絞りの中輪の花は、品のよい存在感があって、どれだけわたしを助けてくれたことか。
私が重宝したのと同じように、人々は、普段の日の部屋の花として、ダリアを「取り敢えず」「片隅に」植えているのだろう。
ところが、庭のダリアたちの写真を探したが、一枚も見つからなかった!過小評価していた自分にショックだった。
主役級の名脇役なのに、「ある・居る」ときには気づいてもらえない。失ったとき、なくなったときに、そのありがたみ、素晴らしさに気づかされる。
今回のような自然災害が起こるたびに、当たり前の景色と自然、当たり前の生活の営みのありがたさに気づかされる。
いとおしく、懐かしく、恋しく、そして悲しくなる。
[唯一見つかったダリアの写真。ベルン郊外に住むスイス人の知人の家に向かっていたとき]
[ベルン市内からバスで20分余り。終点で降りてから歩くこと15分ほど。道端の菜園(貸し農園?)に咲いていた。]
[スイスのどんな田舎の小さな村でも見かける昔ながらの水場。必ずといっていいほど、ゼラニウムが飾られている。やはり赤が一番似合う]