8/6のブログでは、義母の戦争体験について書いたが、その際に触れたように、800字にまとめた実母の戦争体験記を載せようと思う。
終戦の年、義母は19歳、実母は13歳。この6歳の差は大きいと二人の母を取材してみて思った。8/7のブログに記した夫の言葉どおり、義母は多感な10代後半を戦争一色で塗りつぶされてしまった。それに対して実母は、アメリカ占領下の焼野原の東京とはいえ、空襲に怯えることなく、勤労動員されることもなく、女学校時代を送ることができている。そのころの友人たちとの親交は、病死・老死でこそ人数は減っているが、今日に至るまで続いている。下記の通りの怖い体験をしているし、食糧難でひもじい思いもしているが、実母には「底悲しさ」が感じられない。
実母は東京育ちだったが、疎開していたおかげで、3月10日と5月25日の二度の東京大空襲を免れている。反対に、義母は島根県生まれだったのに、広島に移り住んでいた。生まれた年と、終戦間際を過ごした場所によって、運命の明暗は残酷なほどわかれてしまったのだ。
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「実母の戦争体験記」(800字)
その出来事は昭和二十年七月の昼過ぎ、中学校からの帰りに起きた。私は十三歳。祖母と弟たちと疎開していた湯河原町から西多摩の西秋留(にしあきる)に移って間もない時だった。
私が乗った汽車は、熊川駅から東秋留駅に向けて出発し、すぐに駅近くを流れる秋川を渡りにかかった。普段は、戦時下で貴重となった石炭をくべ足し、下り坂で勢いをつけて広い河原にかかる橋を渡りきり、対岸の線路を一気に上る。
だが、その日は違った。どこかで聞きなれないサイレンが鳴り、同時に汽車は橋の上で急停止。何事かと思う間もなく、右手後方から艦載機グラマンがいきなり現れ、私の頭上を横切りつつ、列車に向けて右から左へと機銃を乱射。私の周りで乗客が次々と血を吹いて倒れる。操縦席には、肌が日焼けした若いアメリカ兵。目はゴーグルで覆われていたが、ふっくらとした顔立ちを、七十年経た今でも鮮明に覚えている。一瞬の出来事だった。
気がつくと床にも壁にも十五センチほどの穴が開き、真下の川や空が見えた。眼下の河原には橋を守る筈の高射砲があったが、全く太刀打ちできなかった。(一刻も早くこの場から脱出せねば!)車両の端の扉をあけてデッキに出た。路肩もないむき出しの線路なので、渓流と河原しか見えない。高射砲の兵隊さん二人がかけてきて「艦載機が引き返してくる前に早く飛び降りろ」と叫んだ。「そこの深いところに飛び込むんだ。すぐ川下(かわしも)の浅瀬で捕まえてあげるから」「鞄は先に河原に投げておけ」矢継ぎ早に指示が飛ぶ。かなりの高さだったと思う。しかし無我夢中で指示に従った。鞄を投げ、下駄を脱いで片手に握りしめ、デッキを蹴って宙に飛んだ。
流れから助け出された私は、鞄を拾って二駅先の家まで一目散に歩いて帰った。だが、生還を祝福された記憶はなぜかない。「腹ぺこで疲れた」とへたり込むように寝てしまったことだけを覚えている。
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