桜が満開の季節を迎えた。同じ場所に長く住んでいると桜の木にも「一生」があると気づかされる。
30才の息子が生まれた頃、近くのお寺の境内には桜の大木が三本あり、「桜爛漫」を体現したかのように見事に咲き誇っていたものだ。娘が、息子が幼かった頃に近くの公園で撮った写真の背景には、必ず美しく咲く桜で縁どられた池が写り込んでいる。
今では、それらの木は、切り株だけになっていたり、枝が大幅に切り落とされたりしている。残された幹も老い、かつての美しさは見る影もない。特にここ数年でその傾向が一気に進んだ。桜の季節を迎えた今年は、寂寞とした思いばかりが胸をよぎり、カメラを向けたいと思う景色には出会えていない。
名所の桜は別格として、市井の桜の木の樹齢は樹木の中では比較的短いと聞いたことがある。子どもたちも30年以上、私自身は60年以上、同じ桜の木たちとともに歩んできたのだから、これも自然の摂理と言えるのだろう。
桜は、花のはかなさに留まらず、樹自体もまた、時の流れの中では、限りある命の樹木なのだと改めて思う昨今だ。
[桜の季節に咲く雪柳が、若い頃から大好きだった。今週、思わず立ち止まってカメラを向けた花は、桜ではなく、母のホームの近くに咲いていたユキヤナギだった]
ちなみに、ブログタイトルの画像は、東京の桜の名所、千鳥ヶ淵の7年前の桜だ。大切に手入れされているから、不老不死は無理でも、長寿の桜だ。