いつも行く地元の公園が、今日で創立60周年を迎える。1歳半からこの土地に住みつづけている者としてとても感慨深い。私より数歳だけ若い公園。幼児期に遊んだブランコや滑り台や池のボートは、何度か世代交代したものの、ずっと同じ場所にある。私の子どもたちも、生まれて初めて散歩したのはこの公園だった。
設立が1961年ということになるが、終戦から16年、また1951年のサンフランシスコ平和条約によって日本が占領下から主権を取り戻してから10年。一般国民にとっては、ようやく生活の基盤が整い始めた時代だったのだろう。近代国家の仲間入りの象徴となる東京オリンピック開催まであと3年という時期になるわけだ。
終戦後もつづいた食糧難の時代にあっては、土地といえば農作物か家畜目的以外には考えられなかっただろう。一般市民が憩う公園というのは、考えてみれば贅沢な存在だ。まして、公園維持に資金と労働力を自治体は割かなくてはならないから尚更だ。都心の公園の多くは、天皇家、大名屋敷、神社仏閣に由来するものが多いと思う。同じ武蔵野であっても、井の頭恩賜公園と違い、由緒もない単なる自然な公園を造設した当時の地元の有力者と都政関係者の尽力に感謝の気持ちでいっぱいになる。
いま改めて幼児期の記憶をたどると、我が家から歩いて(子供の足で)10分ほどでたどり着く池から見える対岸は、草ぼうぼうの草っ原で、親からは「行ってはいけないところ」と言われていた。ブランコなどの遊具はそれよりもずっと手前にあるので、遊びに行ってもそこまでで引き返す。公園ができた当初は、「公園」と呼べる部分は限定的だったのだと改めて思う。
それにしても、子ども時代の記憶を親目線で振り返って驚くのは、一つ年上の兄と私で、二人とも幼稚園児だったにもかかわらず、池のすぐ脇に住んでいた幼稚園友だちの家に子どもだけで始終遊びに行っていたことだ。みんなで公園内で走り回って遊んでいた。ゲンちゃんという兄の同級生は、今風に言えばアスリート系で、木登りはまるで猿のようにうまかった。いちど「母の掟」を破って、池の反対側の原っぱに6-7人で遊びに行ったことがある。その日は、兄が珍しく下駄をはいていた(それにも今の感覚で驚いてしまう)。子どもの背丈以上ある草の中はスリルがあり、たぶん追いかけっこでもしたのだろう。兄が下駄の片方をなくしてしまった。当然のことながら見つけることはできず、べそをかきながら家に帰り、二人揃って母にひどく怒られたことを思い出す。
ーーとここまで書き、60年という歳月は、もはや昔話の世界なのだと気づかされる。そのうち孫にも、おばあちゃんの昔話、地元の昔話でもしてあげようかな。