60からのしあわせさがし ~bistrotkenwoodの日記

徒然日記、料理教室、学習障害、お一人様、外国との縁

タイの絹の紬

唐突で恐縮だが、マットミー・シルクと呼ばれる絹の紬(ツムギ)がタイにある。

タイシルクといえば、ジム・トムプソンが有名。20世紀の近代化の波の中で廃れつつあったタイの絹織産業を復興させ、タイシルクを広く世界に知らしめたアメリカ人実業家だ。

しかし、ブランド化と商業化に成功したジムトムプソン・シルクや、タイの土産物店に並ぶ安価なタイシルクのほかに、手織りの絹の紬がある。それが、マットミー・シルクだ。東北タイのイサーン地方を中心に、古くから女性たちによって織られてきた布だが、柄を織り出す手間がかかるので、後継者は育たず、衰退への拍車は一層早かった。

その危機を救ったのが、プミポン前国王の妻であるシリキット王妃だった。マットミーの美しさに魅せられて、70年代に伝統的な絹織産業を保護する基金を設立。そして公式の場で、率先してマットミー・シルクで作られた衣装を纏われた。

1984-86年に、私は結婚して初めての海外赴任地としてバンコクに暮らした。国民から絶対的といえる畏敬の念を集めていた国王と王妃の肖像は、至るところに掲げられているお国柄だけに、最高級のマットミーシルクは自然と目に焼きついた。また当時、タイの上流夫人たちも、王妃が支援されているシルクで作った服をこぞって着ていたのも記憶に残る。

この手織りの絹の紬のすばらしさと稀少さを教えてくださったのは、あるボランティア活動でご一緒したJICAの夫人だった。ご主人の仕事柄、タイの産業、農業、漁業などの知識がとても豊富な熟年の夫人だった。マットミーシルクは、駐在員妻がバンコク市内で簡単に見つけられるものではなかった。ただ、東北部イサーン地方の玄関口といえるコーラート市ならば出会える可能性がある、それも王室御用達レベルではなく手が届くものもある、との話だった。

このような話を聞くと、できれることならば一枚ほしいと願うのは自然な流れ。まして、安い仕立て賃で洋服をオーダーメイドできた時代だった。

夫は、タイーカンボジア国境の難民キャンプまで行くことはたびたびあったが、それ以外の地方出張がほとんどなかった。それがある時、コーラートに行くという。そこで、もしできたらマットミーシルクを買ってきてほしいと、私にしてはめずらしく「おねだり」した。(宝石のサファイアもタイの特産品なので、それに比べれば、可愛いおねだりですよね?、笑)そして、どうやって探したのかわからないが、本当に買ってきてくれた。

しかし…、20代だった私はがっかりした。とても地味で「オバサンぽい」色合いだったからだ。夫には申し訳ないが、しばらく放置したように思う。でも、良質の生地らしいことはわかったので、“タイ駐在の記念”として、奮発して腕のいい職人に依頼して服に仕立ててもらった。たしか、離任直前にタイの方々が大勢出席されたパーティーで、任国への敬意を表する証として着用したと思う。

それ以来ずっと洋服箪笥の隅に眠ることとなった。タイを離れてみると、着る機会が意外とないことに気づいたのだ。仮にその服を着て欧米の国のパーティーに出席したら、たぶん日本人ではなくASEANの国の人間だと間違われてしまうだろう。タイ人に招待された時にぜひ着て行こう!と思っていたが、チャンスは訪れなかった。 f:id:bistrotkenwood:20210904225828j:plain

そして、35年後の先週の土曜日、遂に再登場する日がきた。甥の結婚式で着たのだ。当日は、早朝にまず高齢の母をホームに迎えに行き、会場では車いすの母のサポートと、お嫁さんがヘアセットに入る間はJ君のベビーシッター。挙式は午後1時半に神社で執り行われると聞いていた。服選びの際、猛暑日で困ったな~と悩んでいたところ、熱帯の国の絹服があったことを思い出した。オバサンっぽい色のおかげで、バァバでも着れたのだ。(むしろ、派手ではないかと心配した。) 

結果は大正解。タフタではないが、ハリのある質感で、神社境内の35℃を超える炎天下にも、冷房の効いた披露宴会場にも耐えた。さすが南国仕様! (^_^)v そして、アジアの布のせいか、また絹であるおかげか、和装の親戚の中にいても不思議となじむ。思いがけず色々な方から服へのコメントをいただいたのはうれしいオマケだった。確かに、オンリー・ワンの一着なのだ。

ーー35年遅れで、亡夫に「ありがとう!すごく良かったわ♪」と心の中でお礼を言いながら、今いとおしく服を眺めつつ、はるか昔のタイの日々に思いを馳せている。

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[まるでメルカリに出品するようだか…笑。

実際には、もう少し渋い色合い]