東大和市の公園内にある戦争遺構、旧・日立航空機株式会社立川工場変電所を見てきた。同工場は、太平洋戦争末期に三度にわたり空爆され、工場敷地内にあった変電所は被災しつつも破壊を免れた。
戦後は経営母体が変遷しつつ、なんと1993年までこの姿のまま変電所としての役割を果たしたそうだ。その後、都立公園整備の為、取り壊し案が浮上したが、地元住民や元従業員たちの熱意により、戦争の傷跡を後世に残すため、公園内に保存されることになったという。
私がこの存在を知ったのは、昨年春の読売新聞記事(4/3/2021)。所在地名がその数ヵ月前に実母が入居したホームと同じだったので目に留まった。母のホームへ行った際に、ぜひ寄り道して訪れたいと思っていた。
そしてようやく一年後の今日、実現した。午前中にホームで入居者家族の懇談会があり、都合により、母の面会時間まで2時間以上待つ必要が生じたからだ。いつもは通らない道をホームから10分ほど進むと、桜の古木が随所に点在し、その若葉の緑が鮮やかな広々とした空間が現れた。その中に渋いモノクロムの、昭和のコンクリートの「箱」が浮かび上がっていた。目を凝らしながら進むが、新聞で見たような弾痕は少ない。しかし、柵に囲まれた建物の周囲を半周するとその姿は一変した。一面が大小の弾痕で被われていた。説明パネルに添えられた往時の工場敷地図を見て納得した。変電所の南側に大きな工場が四棟、「田」の字に存在していたのだ。これらが標的となって空爆されたのだ。
正面に周る角には、大きな慰霊碑が建てられていた。爆撃で110人の死者と多くの負傷者が出たという。生々しい弾痕と壊れた階段を眼で追いながら2階を仰ぐと、窓の中には変電所らしい機械が部分的に見えた。そして真正面に移動しながら目線を下げて行くと、柵には大きな「NO WAR」の白い横断幕。その一方、建物正面の両脇には、バラや可憐な花々が市民ボランティアによって植えられ、美しい彩りを添えていた。5月の息吹あふれる美しい色彩の世界と、無残な遺構の対比に、しばし心を無にして見入った。
そもそもなぜ戦後生まれの私が、ここ数年、自分の身近に残る戦争にまつわる場所に引きつけられるのだろうか?としばしば自問している。それは、端的にいえば親が戦争経験者だからだろう。実母は、立川から更に少し西にある西秋留(現・あきるの市)に疎開していた時に、通学途中に乗っていた電車がグラマンの機銃掃射に遭っている。義母は広島の爆心地から5キロ離れたところで被爆している。父たちもそれぞれに満州とスマトラから運によって生還できた人たちだ。その子である私の世代は、戦争を身近なものとして感じられる最後の世代なのかもしれない。
しばらくして横断幕に近づいてよく見ると、赤っぽい油性ペンで読めない文字が二ヶ所に書き込まれていた。「???」と思ったのも束の間、幕の傍らに小さな説明が添えられていた。ウクライナ語で「no war」を意味する言葉であると。
戦争の激しい傷跡を眺めながら、自分の心の中がモヤモヤとしていた理由が、この瞬間にわかった。心の目には「今」が投影されていたのだ。昨年、新聞記事が掲載されたとき、一年後にウクライナ全土が、この建物よりも悲惨な状況にあることをだれが想像しえただろうか。