11日にイグナチオ教会で葬儀ミサが執り行われた。コロナのために、葬儀の参列者は制限され、多くの信奉者や生前に親交のあった方たちはネット上で同時配信されるミサに参列する形式をとった。
教会内部が映し出されたとき、あまりの人数の少なさに意表を突かれた。ソーシャルディスタンスをとった劇場の席の配置どころではない。ポツンポツンとまばらにしか着席者がいないのだ。さらに、その方々がほぼ全員、白い式服を纏われた神父様たちだった。
そして、ごミサは粛々と進行していった。過去に何度かイグナチオでの葬儀に参列したことがあるが、同じ教会とは思えない、holyな雰囲気に包まれていた。弔辞のなかの「(デーケン神父様が)帰天された」という言葉に接したとき、神の御元に戻ってゆかれたのだと実感した。
たまたま最近、石原慎太郎と曽野綾子の対談本『死という最後の未来』を借りて読んだあとだったので、尚更気持ちが引き込まれたのかもしれない。その中で、カトリック信者にとっては「人間の死は、永遠に向かっての新しい誕生日」であると曽野氏は語っている(同書p.167)。
聖職者たちだけで執り行われたごミサは簡素で、「主の祈り」の中に出てくる文言のとおり、祈りに終始したように感じられた。そして最後は、参列者たちによって聖歌が唱われるなか、神学生たちが棺をかつぎ、教会の後方へと進む場面で中継は終了した。
ところで、白い式服姿の神父たちの唱う聖歌はラテン語だった。21世紀の東京のど真ん中とは思えない、まるでヨーロッパ中世の修道院を彷彿する厳かなエンディングだった。
※ちなみに、友人によると、白の式服は、昨年、教皇様が来日された際に、東京ドームでのごミサに参列するために神父様一同で新調されたものだそうだ。