60からのしあわせさがし ~bistrotkenwoodの日記

徒然日記、料理教室、学習障害、お一人様、外国との縁

義母の広島被爆体験

今日は、広島に原爆が投下されてから75回目の慰霊の日。投下時刻にテレビ中継とともに黙とうした。一国民として、そして被爆した親族を持つ者として。

75年前、夫の母が広島で被爆している。4年前に私は、当時90歳の義母の戦争体験を取材し文章にまとめた。きっかけは、そのころ受講していた文章講座で「戦争体験者を取材して(一人称の文体で)800字にまとめる」という課題が出たからだ。課題のために、隣に住む実母を取材して書いた。私がフルタイムで働いていた時期で、義母のもとを訪れてじっくり取材する時間がなかったからだ。被爆体験をわずか原稿用紙二枚にまとめたくもなかった。しかし、となりの母の戦争体験を文字に落とす作業を行ってみて、どうしても義母の経験を聞いて、家族の歴史として書き残しておきたい、おかねばならないと強く思うようになった。

仕事の休みの日を利用して取材に訪れた。義母は、戦時中に留まらず、出生から結婚するまで、時系列的にわかりやすく話してくれた。島根県出雲市生まれの義母は、小学校6年生の時に家族で広島市に引っ越している。だが、戦況が厳しくなると、県下の安佐郡緑井というところに家族で疎開。ただし、在籍した女学校も、勤労動員された工場も爆心地に近かったのだ。

私の取材に対して、聡明な母は、事実や体験を正確に話してくれた。その中に、8月6日の原爆投下があった。母は、感情移入せず淡々と話した。多くは語らなかった。母が語ってくれたことを私はメモした。聞いたこと以上の質問はとてもできなかった。言葉少なかった分だけ、母が見たであろう光景の悲惨さが推し量られた。

文章講座の課題同様に、義母が語り部であるかのように書いた75年前の8月6日の部分を抜粋して載せようと思う。

私が書いた原稿を母はもちろん推敲してくれている。更にその後、母の弟のM雄氏も訂正の筆をいれてくださった。

(2020年8月現在、母は頭もしっかりしていて元気だが、M雄氏は、残念ながら昨年他界された。)

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昭和20年8月6日の朝も、いつものように工場に向かいました。緑井は広島の北方に位置し、列車を三回乗り継いで通っていました。まず横川駅まで国鉄の電車、次に山陽本線で広島駅まで、最後に東へ向かう汽車に乗り換えると、一つ目の駅に工場はありました。汽車が定刻に広島駅を出発することは稀で、10分ほど遅れることが多い毎日でした。しかし、この日は偶然にも定刻に広島駅を出発し、東へと向かったのです。原子爆弾が投下されたとき、私は工場に到着して建物の中に入っていました。爆風は凄まじいもので、窓ガラスは悉く割れ落ちました。しかし私の知る限りでは、工場内にいた人で投下当日に亡くなった人はいませんでした。その一方、一台あとの汽車に乗っていた人はほとんど命を落としたそうです。もし汽車がいつものように遅れていたら、私の命もあの日に絶たれていたことになります。

 ただごとではないことが起こったことは明らかでした。そうした中で、住まいが広島中心部でない者は自力で帰宅するよう命じられました。女子生徒には、男子学生を付き添わせて帰宅させる措置がとられました。山越えの道で帰ることになった私とMさんにも、高等専門学校の男子生徒一人がつき添ってくれ、三人で工場を後にしました。

山道を歩いていると、服はボロボロになり、焼けただれた皮膚がべろりと垂れ下がっている人たちが、町の方から歩いてくるのに出会いました。被災していない私たちを見て羨ましがられました。返す言葉が見つからず、その場から逃れるように緑井に向かいました。私たちは、その日のうちに村に帰りつくことができました。村では、爆風で散乱したものもありましたが、幸い大きな被害はありませんでした。しかし、この夜、弟のM雄は帰ってきませんでした。中学生のM雄は、広島駅よりも南方の、海に近い被服廠に勤労奉仕に行っていただけに家族に不安が募りました。

翌日、父と私は弟を探しに歩いて町に入っていきました。弟が働いていた工場に行くためには、広島の中心部を縦断しなくてはなりません。私が見た光景は、筆舌を超えるものでした。川は無数の死体で埋めつくされ、道端に倒れて亡くなっている人や、うずくまってまだ息をしている人のただれた傷口にはハエがたかり、一夜にしてウジ虫がわいてうごめいていました。その衝撃と目に焼き付いた光景は、忘れたくても忘れられない、しかし、これ以上語れない、語りたくない。

弟を探すために南へと進んでいた父と私は、偶然にも弟の学友(同級生)に出会うことができました。そして彼から、弟を含む勤労奉仕の学生たちは、工場のコンクリート壁のおかげで無事であることを知りました。地獄の中に射し込む一筋の光りでした。弟はかならず自力で帰ってくると信じ、私たちは引き返すことを決めました。市内にいることに言葉にならない恐怖を覚えたからです。

父が確信した通り、その夜のうちに弟は一人で家までかえってきました。こうした被爆体験から、ずっと後の昭和37年頃になって私と弟は原爆被爆者手帳の交付を受けました。それにもかかわらず、私たち姉弟にも、父にも、原爆後遺症が出なかったことは幸運というしかありません。[中略] 工場のコンクリートの壁が私たちを生かし続けてくれたのです。

(私が在籍していた)広島女学院に話を戻すと、学校が市の中心部にあったため、原爆によって校舎が全壊し、教職員と、勤労動員の年齢に達していなかった一年生のほぼ全員が、その下敷きになって亡くなりました。勤労動員されていた生徒だけに生存者がいるという悲しい結果となってしまいました。[以下、略]

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体験者の言葉は重い。