60からのしあわせさがし ~bistrotkenwoodの日記

徒然日記、料理教室、学習障害、お一人様、外国との縁

タイ生活とティウ

この季節にタイ料理をお教えするのも三年目になった。しかし今年ほど、タイでの生活と私たちの元で働いてくれたメイドのティウについて、懐かしく思い出したことはない。
一つには、昨秋、娘についての本『「学習障害の周辺の子」といわれた娘も、ちゃんと自立した社会人になれました。』(→当ブログの欄外参照)のなかでバンコク生活とティウについてかなり詳しく記し、「ティウの逃避行」というコラムまで載せた記憶が新しいからだと思う。更に、今回の教室に、同じ時期のバンコクやティウを知る方が4名も参加したお陰でもあると思う。本には書かなかった他愛もない記憶が次々と蘇ってきて懐かしい。

*********

1983年に1才1ヶ月の娘を連れてタイの首都バンコクに到着して、私にとって最初のハードルは、メイドさん探しだった。当時は日本人駐在員は皆、若い家族でもメイドさんを雇って生活する時代だった。タイ人はフィリピン人と違って英語ができないから不安だった。しかし有り難いことに、知人の紹介でティウ(27才?)という賢く有能なメイドに巡り合えた。片言の英語と日本語ができ、家事能力も高く、料理上手な人だった。ヤムウンセン以外にも、様々なタイ料理や、お総菜の和食も器用に作ってくれた。
メイドなんだから出来て当然でしょう、と日本人ならば思うかもしれない。しかし、少なくとも私が滞在した80年代前半には、必ずしもそうではなかった。今回の参加者からは「ウチのメイドさんは、最初に来たときは、作れる料理が4つしかなかったのよ」といった話が出た。それで思い出したのが、ティウの妹。ティウは異母兄弟が10人近くいる中の最年長のしっかり者。そのティウが、私たちのところで働いていた時に出産することになり、「休んでいる間に妹に働かせます。その前にちゃんと教え込みますから」といって、10歳くらい年下の妹ブンソーンを連れてきた。ブンソーンの料理のレパートリーは、まさに4品くらいだったと思う。ティウが少し教え込み、ブンソーンは家事も料理も子守りも頑張ってくれた。しかし、ティウがいかに有能であるかを再認識する機会となった。
更に思い出したのが、夫の同僚の家庭で雇った若いメイドさんの中に、ガス台に火をつけることすらできない人がいたということ。田舎から出てきたばかりで、七輪に火を起こして煮炊きすることしか知らない子だったらしい。バンコクは、すでに経済成長が目覚ましく、欧米系の豪華なホテルも次々と完成している時期だった。しかし、地方は貧しく、まだ近代化の波が届いていなかった。ティウも、10歳にもならない頃から、水辺に生えるクレソン系の葉を摘み、きれいに調えて束にして、数バーツで売って家計の足しにしたという話をしてくれたことがある。水を飲んで空腹を紛らわしたこともあると言っていた。
かなり昔にヒットした邦画の「Always三丁目の夕日」や、しばらく前の連続テレビ小説「ひよっこ」では、戦後日本の高度成長期が舞台だった。地方の中学を卒業したばかりの若い子たちが大都市へ集団就職した時代。雇用主の家や寮に住み込み、仕事を一から叩きこまれる。日本もかつて通ってきた道だ。集団就職ではないが、80年代のタイでは、同種の名残がまだ感じられた。当時のアパートには、玄関扉のすぐ外に、住み込みのメイド用の小部屋があったのも、懐かしく思い出される。私たちよりもあとにバンコク勤務した人たちは、エアコン完備の近代的なマンション住まいだったと聞くので、私たちは古い様式での生活を経験した最後の世代なのかもしれない。同時に、50年代生まれのティウと10年あとに生まれたブンソーンとの間に「奉公人魂」の違いを感じた。ティウには「おしん」のような辛抱強さと根性があったが、ブンソーンは、今を楽しむ現代っ子だった。タイも急速に変化を遂げている時代だったと改めて思う。

********

子どもの頃、祖父母が「昔は…」と話を始めると、(古い話がまた始まったか)と思ったものだが、名実ともにバァバになったいま、ひと昔、ふた昔前のはなしを書いている自分がいる。そもそも、思い出の徒然日記のようなこのブログ。
お忙しい方はどうぞスルーしてくださいね🙏

f:id:bistrotkenwood:20200625003449j:plain
チャオプラヤー川から王宮を望む(35年前にバンコクで現像した写真だから色の劣化が激しい…)