60からのしあわせさがし ~bistrotkenwoodの日記

徒然日記、料理教室、学習障害、お一人様、外国との縁

亡夫と娘とわたし

昨日はかなり久しぶりに友人のAさんと会った。仕事やボランティアなどで次々と新しいことに挑戦する明るく前向きな女性だ。昨日も最近のチャレンジを明るく楽しそうに語ってくれた。
しかし私と同年齢の彼女の心には、いつも晴れないモヤモヤがある。現代社会の中で生きづらさを感じる娘のBさんがいることだ。我が家の知的障害がある娘・Yに比べたら、ずっと能力も高いし羨ましい素質をたくさん兼ね備えているお嬢さん。でも、強いて言えば、娘のYとちがってライトなグレーゾーンにいるがために、(引きこもりではないのに)社会の中の居場所を見つけにくいのだと思う。ダークグレーの娘を育ててきた中でたくさんの壁につき当たってきただけに、私には母親であるAさんの気持ちが痛いほどわかる。
そして彼女と話し、一夜明けてメールのやり取りをする中で、改めて夫・娘・私の関係について振り返り、さらにこれから老いていく自分と娘の関係について思いを馳せる機会を得、Aさんに感謝しているところだ。
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[今日、Aさんに送ったメールの抜粋から]
B子さんの将来についての悩み、痛いほどわかります。
Yにとって I(私の夫)は、困った時には助けてくれる存在、だけど話を聞いてくれるとか楽しみをシェアしてくれる温かい父という存在ではなかったな~。わたしもまた、どちらかというと夫に近いところがあるから、Yには可哀想なことをしたと改めて思ってしまいました。
Yの場合、私たちがスイス・フランスにいる間、5年以上にわたって親と離れてグループホーム生活していた上に、父親は、帰国後5ヵ月で余命宣告され、その後も激務に従事し、5ヵ月で亡くなってしまった。新たな父娘関係を構築するゆとりがないままにいなくなってしまった訳だけど、ある意味では、彼女にとって幸せだったのかもしれないと、昨日、B子さんとお父様との深いつながりについて聞いていて、ふと思ったりしました。
Yにとっては、打ち上げ花火のようにインパクトがある父親との思い出が最後になったから。

2011年2月にYは、幸運が重なって私たちが住むベルンに来れて、私たちとの暮らしをシェアでき、そのうえ私とは、念願のパリや幼いころ住んだジュネーブを訪問できたことがその‘’大輪の花火”(それも、むかし住んでいたジュネーブ郊外の家と幼稚園まで尋ねることができたのよ!)。彼女にとって、自分の人生をなぞりつつ、スイスとパリを満喫する最高の旅という形で、父親との思い出を締めくくれて本当によかったなと思う。

今ふりかえれば、私がデジタルフォトアルバムの制作に初めて挑戦したのは、Yのこのヨーロッパ旅行をまとめたデラックスアルバムだったのよ。
障害があるYが、幼い頃から、自分が映っている写真を、アルバムが擦りきれるほど繰り返し繰り返し眺めている子だったから。映像的メモリーへの感度は高い子だったのよね(今もなお)
昨日お見せしたYの40年間をまとめた「人生Book」アルバムも、ここ最近の私の新たな挑戦の第一号。
成年後見人の監督人さんからの「Yさんにたくさんのよい思い出を作ってあげてください。親亡きあと、老いた単調な日々の中でふり返れる楽しかった思い出を」ということばが耳に響いていたから、真っ先につくったわけ。
そんなによい母親ではないことはわかっているし、罪滅ぼしには全然ならないけれど、Yだけのための、Yが主役のアルバム作りが、私からYへの「思い出プレゼント」になっているのかも……。
余談ながら、昨晩、義母から電話がかかってきたのよ。仕上がったばかりの I さん(義母にとっての長男)と私の子供時代の写真をまとめたアルバムを送ったのが届いたことへのお礼。
「なつかしくて、なつかしくて。今日一日、何度も何度も見返してしまったわ。」
そして「(私も)あんなに若かったのね~」(笑)と何回も繰り返して言うのよ。
義母の人生の中で一番輝いている思い出は、1950年代に二人の幼子とともに家族で暮らしたブラジルのリオでの生活。この時代の写真が中心だったから、たくさんの楽しい思い出がよみがえってきたのだと思う。
Aさんも今朝書いてくださったように「障害があってもなくても人生は思い出つくりね」!
それにしても、昨日の96歳の義母のセリフで、若かった自分の姿や顔さえ歳を取ると(それほど認知症がなくても)忘れてしまうんだって気づかされたわ、笑。鏡に毎日映るのは、96歳の顔ですものね、💦
私たちも今から、少しでも若い自分のよい思い出、楽しい思い出をたくさん残さないとね!
余計なことを長々と大変失礼しました🙏