60からのしあわせさがし ~bistrotkenwoodの日記

徒然日記、料理教室、学習障害、お一人様、外国との縁

ハロウィーン

韓国ソウル市で土曜日に大惨事が起きてしまった。このような形で命を落とした多くの若者とそのご家族のことを思うといたたまれなくなる。

この事故の直後だけにハロウィーンに触れるのは気が引けるのだが、こども主体のこの行事について書くことをご容赦ください。

昨日の朝、秋からロンドンに家族で暮らす息子たちからたくさんの写真が届いた。家族だけで、そして同じ留学生仲間たちの家族とハロウィーンを祝ったという。

息子と五歳になったJ君で大きなカボチャをくりぬいている写真(上の写真は完成したもの)、カボチャのコスチュームを着たJ君とミニミニ・スーパーマン姿の4ヶ月のS君と共に満面の笑みで写っている家族写真、キャンパスでの子どもたちの仮装パーティーの楽しそうなショットの数々。

ロンドン生活を家族で楽しんでいる様子が伝わってきて微笑ましい。海外に出ることに消極的だったお嫁さんもかなり落ち着いたようだ。よかった、よかった。

そして写真には、息子からの短いながら嬉しいコメントが添えられていた。

>>>家族で初めてのハロウィーンを楽しみました。Kenwoodの楽しかった記憶を思い出しました<<<

このケンウッドとは、2001-2002年に家族で暮らしたアメリカの首都ワシントンDCの郊外の住宅地の名前。娘は19歳、息子は11歳だった。息子は地元の公立小学校に通っていた。10/31は、学校でハロウィーンパーティーがあったり、夕方からは再び仮装して、ケンウッド内の家々を「trick or treat」と言いながら友だちと回った。娘は娘で、家で待ち受けて、次々訪れる可愛いお化けやプリンセスたちにお菓子を配るのを楽しんだ。

ケンウッドの楽しかった暮らしと思い出が32歳の息子の心にしっかり刻まれていたのだ🍀

[ケンウッドの玄関。娘と息子が初めて作ったJack 'o lantern。玄関にカボチャを出して灯すのが、オバケたちへのwelcomeの合図なのだ]

ーーところでロンドンの写真を見た娘から届いたコメントはなかなか的を得ていた。

>>>やっぱり、イギリスやアメリカが
ハロウィーン(ハロウィン)イベントの本家ですね。日本のハロウィーン(ハロウィン)イベントは、ただの真似ごとだ(笑)<<<

「そうよね。そして、あなたがわざわざ書いているように『ハロウィーン』が正しくて、日本の若者が言う『ハロウィン』じゃないのよね~」と返信。

Simple is best.

美しい秋晴れのなか10月が終わろうとしている。思い返せば走り抜けた9月と10月の2ヶ月だった。8月下旬にお母様を見送った兄嫁は、海外との間を二往復したのちに兄とともに帰国し、いまや隣の家の家電製品も買い替えて生活が軌道に乗りつつある。

残暑の9月6日にロンドンへと出発した息子家族もしかり。先週末、J君の5歳の誕生日を祝って初めてテレビ電話したが、すっかり落ち着いた様子が皆の顔から伺えた。到着後の短い間にエリザベス女王の死去・国葬、二人の英首相の就任を経験しているわけだ。

どこもかしこも目まぐるしい。

私も、隣のリフォーム工事の合間を縫って4回の料理教室を無事に終えることができた。今年の初めの予定では、ベビーシッター&家政婦役で息子家族とともに9月の一か月間はロンドンに同行することになっていた。そのため、10月から再開する教室の内容は、帰国してすぐに対応できるよう、難易度の低いヨーロッパの「おふくろの味」にすると2月には決めていた。同行しなくて済んだものの、隣の兄夫婦のサポートが舞い込み、結果としては大正解。簡単にしておいて助かった。

簡単なのに皆さんからの評判は、思いのほか上々だった。料理のハーブやスパイス使いも最低限、手間も最低限の料理たち。

「Simple is best」 最後は原点にもどる、と料理が教えてくれた気がする。

[↑↑紅玉の甘酸っぱさをストレートに味わうシンプルケーキ]

私のライフスタイルもまた、原点に戻していくのがよいのかもしれない。

ーーとはいえ、それでは私の料理教室の存在意義がなくなってしまうわけですよね。

う~ん、to be or not to be ...悩ましい、笑

 

怒涛の二週間

怒涛のような二週間が過ぎ、一昨日の早朝に兄夫婦が本帰国した。

私的な用事で一時帰国していた兄嫁がいったん海外に戻った9月28日の翌日から、隣の家のリフォームが始まった。築32年の二世帯住宅なのだが、兄の家族に代わって母が20年間暮らした家は、一度も手入れをしないままになっていたからだ。(兄たちは、途中2回東京勤務したのだが)

家のメンテナンスを依頼している工務店のボスが「いない間の方がやりやすいから、帰ってくるまでにやりましょう!」と言ってくれ、突貫工事が始まった。床、天井、壁、水回りの一部、内外の塗装(部屋の扉・枠、外壁、屋根)…。二軒の家はすっぽりと鉄骨の足場と白いシートに覆われ、毎日、数台の工事車が横付けされた。夕方、隣の家の中をのぞくたびに景色が変わっていた。フローリング材が積み上げられていたり、塗りかけのペンキの缶、大工道具、作業台の上には壁紙カッターなどなど、工事現場そのもの。いや、家具など残っているから、天井のペンキ塗りの直前など、すべての家具・建具に薄いビニールの養生が施され、まるで学園祭の近未来のおばけ屋敷?に迷い込んだようで驚かされた、笑。我が家も9年前に同じチームにリフォームしてもらったのだが、工期を3回に分けたし、住みながら行ったので様相はまったく違っていたのだ。

隣に住む妹としてのタスクは、建前としては朝夕の玄関の開け閉めだけ。しかし、思わぬ時に呼ばれて相談を受けたり、確認を求められたりする。あまりにも短い工期で、現場の作業工程のロジの矛盾が露呈して(同時にできない二業種以上の作業が同日に組み込まれていたり)私まで巻き込まれて喧々諤々。クライアントではないし決定権もなく、現場の管理人小屋に住むオバサンだった。

職人さんたちは、この間、休みを返上して通って来てくれた。絶対に工期を守る日本人の勤勉さを目の当たりにした思いだった。ボスをはじめ、職人さんたちの年齢層が高く、昔気質の人が多かったからなのかもしれない。

私はこの間、前回のブログで書いた9/29の伯母を招待してのランチ会に始まり、10/9から料理教室を3回開催した。半年ぶりの再開とあってただでさえ緊張気味のところ、いつもと違う環境で落ち着かない日々。先日の金曜、土曜は二日連続で開催。初日など、足場外しの日とバッティングしてしまい焦った。二日目の夕方には、まだ皆さんが残っているところで「終わりました」と呼ばれて隣の家に。その日まで残ったカーペット張りとエアコン取付けという最後の作業が終了し、リモコンなど受け取ったのち玄関の鍵を閉め、夕闇のなか門灯をつけた。

それからわずか14時間後の16日の朝7時半には兄たち夫婦が同じ玄関に立っていた!

兄嫁は、短期間のbefore-afterの激変ぶりに驚き感激していた。きれいな家に帰って来れたことを夫婦で喜んだ。

それにしても兄たちにも怒涛の二週間。兄嫁は直近に二度も緊急で往復していたし、兄も離任直前の超過密スケジュール。二人でなんとか「引き揚げてきた」感じ。

なんともはや、「ゆっくり」「ゆったり」が辞書にない一族だ、ため息。

[半年ぶりなのに、こんな景色のなか、教室の皆さんには、奥の玄関まで足を運んでいただくことになってしまった、😃💦]

 

思い出昼食会

木曜日に久々に”おもてなし”の昼食会を開いた。といってもメインゲストは母方の伯母。伯母の長男の嫁・Kさんが車で一緒に来てくださった。日頃から行き来がある姪のHさん、そして私の4人ランチ。Hさんが今回の集まりの立案者。伯父は数年前に亡くなり、独り暮らしとなった伯母を囲んで、元気づけてあげたいと夏前からこの日の開催を決めていた。

このところ想定外の雑務が次々と入り、なかなかメニューが決まらなかった。結局、はじめに「A家の思い出」というテーマが決まり、それに合わせてメニューを考えていった。A家は私の母の実家であり、伯母が跡継ぎの嫁として嫁いだ家だ。母の父・二郎氏は一代で個人医院を築き、院長として活躍する一方、様々な趣味で余暇を楽しんだ人だった。私の祖父・二郎氏とA家の思い出を振り返り、キーワードを上げていった。――海の家、週末の家、その庭での栗拾い、柿の実獲り(高枝切りの鋏が懐かしい!)、白樺、医院近くのケーキ屋さん…。

せっかくなので、思い出を言葉にしたメニューを慣れないアプリで印刷してみた。卓上には、先日みつけた祖父が趣味で描いたはがきを飾った。山の木や花などが好きな祖父だった。

そして迎えた当日。車から降りてきた伯母は、コロナで会えなかった間にだいぶ老け込み、目は心なしか虚ろだった。しかし、次第に以前と変わらぬ明るく快活な伯母に戻っていった。伯母に頻繁に会っている私以外の二人に囲まれている安心感、そして、食事前、私の母の米寿記念に作ったアルバムも「なつかしいわ~」と話題の引き金になった。

食卓へ移り、キーワードに触れながらお料理を出すと、キャッチボールのように、それにまつわる伯母の思い出を話してくれた。お嫁さんのKさんには申し訳なかったが、楽しそうにしゃべる伯母を横からそっと眺めていてくれた。

デザートの冷菓は作ったが、医院の近くで今なお開いているお菓子屋さんから取り寄せたパウンドケーキを添えた。華やかで繊細なケーキが主流の令和の時代に、昭和40年代にワープしたような素朴でありながら丁寧に作られたお菓子。病院界隈の話題でひとしきり盛り上がった。伯母の目はキラキラと輝いていた。

自己満足とも思うが、開催してよかった!この集まりを提案してくれたHさんに心から感謝している。そして、送迎も含めて来てくれたKさんにも感謝。

――くだんのケーキ屋さんから一緒に取り寄せた焼き菓子の詰め合わせをお土産に(「母からみなさんに」といって)差し上げたのだが、夜、Kさんからのメールに、ご主人(伯母の長男)が、包装紙まで昔のままのお菓子に「なつかしい~~」と喜んでいたとの嬉しいコメントが書き添えてあった。やはり私だけではない「A家の思い出」の一つだったのだ。(余談だか、くだんのケーキ店は九段にある、笑)

 

 

 

 

菅前総理の弔辞

安倍元総理の国葬が大過なく終了して早3日が経つ。所用に追われ、ブログをすぐに書けなかった。

日が経つほどに鮮明によみがえってくるのは、菅前総理の弔辞だ。公人の公的な場での弔辞で、こんなに心に響いた言葉はないかもしれない。胸にささり、涙した。亡くなる前の10ヶ月、安倍総理にお仕えし、偲ぶ会では総理から身に余るお言葉を賜った遺族だから余計なのかもしれない。

国葬では、元官房長官でも前総理大臣としてでもなく、友人代表としての弔辞。菅官房長官が「女房役」として安倍総理を支え続けられたからこそ、最長期政権が実現したのだということを、弔辞を伺って確信した。そして「この総理のためならば(命を賭してお支えする、お仕えする)」と決意させる「もの」を持った安倍総理でいらしたのだと改めて思った。少なくとも夫は、一公務員の立場として、病と闘いながら命を賭して最後の日までお仕えした一人だった。

 

 

臨場感?

生後三か月の赤ん坊もいる息子家族4人がロンドンに到着した二日後にエリザベス女王が亡くなられた。4歳児もいるし、自分たちの生活を立ち上げるので精一杯だろうと思ってこちらからの連絡は控えていた。

今週になって、事務連絡がいくつかあったのでラインしたついでに国葬に触れた。ロンドン郊外の住宅街に住んでいるから、臨場感は薄いようだ。「テロの危険もあるし、中心部には近づいていないし、現地のテレビを契約していないし…」と嫁のHさん。初めての海外で、24hr赤ん坊とお兄ちゃんの世話に追われていたら、ネットの(日本の)ニュースをフォローするゆとりなどないだろう。

それでもHさんが上記の写真を送ってきてくれた。町の至る所にこうした写真が掲げられていて、人々が喪に服している様子がうかがえるそうだ。

前回のブログに掲載した切手に体現されるように、英国民の心と目に、エリザベス女王の存在が刻み付けられているだけに、その喪失感は想像に難くない。

ところで「テレビ受信契約をしていないし」とのコメントを読んで思い出したことがあり返信した:

>>>現地にすんでいると、かえってそんな感じかもね。

今回とは全然違うけど、80年代のバンコクで「王宮周辺でクーデター発生」という騒動になっても、私たちがすんでいたスクムビット通り辺りは普段通り。

あと(当時の)王様のお母様が亡くなられたとき、国葬に近い葬儀があったけれど、それも情報ゼロ。(タイ語だけのテレビだったから、やはりTVを持ってなかった!新聞もしかり。ネット時代のずーっと前だったし)<<<

現地に住んでいると、言葉の壁もあるし、治安の情報も少ないし(特に息子家族はまだ土地勘もないし)…、ロンドンといえども、こういうときはむしろ外出を控える…

ーー往々にしてこんなものなのだと思う。

エリザベス女王と英連邦

一昨日、エリザベス女王の国葬が厳かに執り行われた。かつて世界に君臨した歴史をもつ大英帝国の、それもご在位期間が70年にわたる君主であられただけに、世界の多くの国と人々にとって喪失感は大きい。

今回、久々に「英連邦」という言葉を頻繁に耳にする。かつてイギリスが宗主国であった国々はその後独立しつつも英連邦に帰属している国が多い。

この言葉の響きが懐かしい。というのは、親の仕事の関係でロンドンで生まれ、一歳半で帰国したのだが、父は帰国後、外務省の英連邦課に勤務したと認識している。幼児なりに言葉がある程度わかるようになった幼稚園時代、「エーレンポー(カ)のおしごと」というセリフを家の中でしばしば聞いていたからだ。まるで漫画のキャラクターか花の名前(キンポーゲ、キンレンカ?)のようなお仕事をしていると思ったものだ。かなり後になって、漢字表記を知った時は「そうだったんだ!」と苦笑してしまった。

幼児期、父は「エーレンポーカのおしごと」で時折、海外出張した。そして、出張先から家族に絵葉書を送ってくれた。カラーテレビもない時代、異国の絵葉書はおとぎ話の国の景色のように見えた。そして、思い出すのがそこに貼られた切手。多くの切手の隅に、女王様の横顔が小さめに描かれていた(冠をかぶっているから、幼児でも女王様とわかる)。あるいは、切手自体が女王様の肖像画。子ども心には「なんでどれもこれも同じなの。切手一面が素敵な絵で、お顔はない方がいいのに」と思えた。その肖像こそ、書くまでもないが、エリザベス女王でいらしたわけだ。

この度の国葬とそのご生涯の報道に接して、こうした幼児期の思い出が懐かしくよみがえってきた。私が生まれたときには、既にご即位されていて、その後今日まで英連邦の君主としてご在位されてこられたことに、改めて畏敬の念を感じずにはいられない。すでに21世紀が20年以上経っているのだが、女王の死去とともに20世紀が遂に幕を閉じてしまったような寂しさを感じている。

[断捨離で古いものはかなり処分したが、切手帳を一冊だけ残してあるのを思い出した。

上の写真は、香港、マルタ、そして英国(お城シリーズという切手らしい)、下は全て英国]