「Mさんて、リスクヘッジを考えるんですね」
先日、40代の男性美容師Eさんに言われた。
スマホケースに付けてあるリングがきっかけだった。
最初、Eさんはルーペだと思ったらしい。(こちらは60代のオバアサンだから致し方ない、😅)
スマホを落とさないために指を通しておくリングだと私は説明した。
「混んでいる通勤電車で手から滑り落ちたら、拾うどころではなくなってしまうじゃない?」
フルタイムで働いていたときから付けたままになっているリングについて話した時だった。
Eさんから「リスクヘッジ」の言葉が飛び出した。
自分では使うことがない、いまどきの業界用語だ。
それなのに、自分のなかにストンと落ちるのを感じた。
そう、私の人生は、リスクヘッジを常に意識して歩んできた人生だったのだ、と。
結婚して一ヶ月で実家の両親は海外勤務(エジプト)に出てしまい、10年近く日本で一緒になることはなかった。40年近く前のこと、届くかわからない手紙しか連絡手段はなく「(親に)頼る・相談する」どころではなかった。
その一方、結婚して半年後に義母が病気になり、半身不随だった義父との二人の生活は立ち行かなくなってしまった。介護保険制度ができるずっと前だったので、新婚の私たち二人は奔走した。
やはり助けてもらえる義父母ではなかった。
「なにか非常に困ったことが起きたら?(=リスク)」と考えたとき、
「誰かが助けてくれる」
「危機を脱出できるだけのお金やサポートがある」
ということであれば、
「その時はその時でなんとかなるさ」
と思えるだろう。
しかし、その助けをどこからも得られなかったら、「なにか」が起こらないような備えが必要となる。
私の場合は後者だった。
義父母のサポートの傍ら、娘が誕生。
その後、「変な子」の娘を、未知の国々で育てていくこととなる。
軽度知的障害がある娘の養育記(※詳細は、欄外の書籍をクリック)には詳しく書いたが、自分の意思のおもむくままにどこへでも行ってしまう子だった。タイでは、恐ろしいことに、野犬に噛まれて狂犬病のワクチンを6回も打つ羽目になった。(傷は幸い小さかったのだが)
予測不能な行動をとる娘をいかに危険から守るか?を念頭に、常に行動する必要に迫られた。
幼児期だけでなく、成人してからも。
今日に至るまで。
想像しうるリスクを常に先回りして考え、その危険を回避する方策を整えておくよう心がけてきた。
美人ではないが、眼がぱっちりと大きく、体格もふくよかな娘であっただけに、10代、20代のときは、心配が増えた。
「心配性、悲観的」
といわれればそれまでだ。
しかし、備えは必要だったのだ。
高校時代、親の手と目が届かない全寮制の学校内で、陰惨ないじめに遭ってしまった。
娘を危険から守りつつ、同時に、障害者として自立させていくという目標に向けて、親としての模索が更に深まった。
リスクヘッジを常に意識してきたからこそ、娘はいじめ事件以降、社会のなかで、大きなトラブルに巻き込まれず、傷を負うこともなく、無事に37歳の今日まで過ごしてこられたのだと、今回、改めて思ったのだった。
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「僕なんて『スマホを落としたら? 』なんて心配したこと、ありませんよ。だから、落としてヒビだらけで使ってますよ」
ーースマホだからいいんですよ。
娘だったら、ヒビだらけにできないし、リセットも買い換えることもできないんだから。ーー
[週明けに、娘からこういう写真が時々送られてくる。週末に友だちと食べたスイーツ。
幸せな時間を過ごしている証だ。
しかし、糖尿病の家系である上、娘は太っている。
糖尿病になるリスクを減らすため、私はたびたび「ダイエット!」とさとす。
だが相変わらず「意思の赴くままに」パスタやスイーツを楽しんでいる。
リスクヘッジ: 言うは易し、行うは難しだ]